千葉第一法律事務所
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ご挨拶 事務所のあゆみ 取り組んだ主な事件
ご挨拶

東日本大震災の被災者の皆様には、心からお見舞いを申し上げます。ご挨拶イラスト
大地震、大津波に加え、原発の事故とこれに続く放射能の脅威は、復興にとっても大きな課題を突きつけています。
千葉県内でも、多くの被害が出ており、今後、復興や賠償問題など、私ども法律家が担うべき責任も重大であると考えています。

当事務所は、元衆議院議員である柴田睦夫弁護士が、1956年に個人事務所として開設し、その後、1975年に千葉第一法律事務所として再出発して今日に至っています。
現在、ベテランから若手まで、12名の弁護士が所属しています(内、女性弁護士が4名)。

これまで労働者や消費者、中小零細企業経営者や一般市民の皆さんの良き相談相手を目指し、さまざまな事件を担当させていただいてきました。大きな成果も挙げてきました。私たちは、これからも生活者の視点に立ち、市民の皆さんの頼れるパートナーとして共に歩んでいきたいと考えています。また法律家として、基本的人権と社会正義の発展のために力を尽くしたいと考えています。

まずは、お気軽に弁護士にご相談ください。きっと問題や悩み事の解決の糸口が見つかるはずです。一緒に考えて行きましょう。

事務所のあゆみ
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取り組んだ主な事件

私たちがこれまでに取り組んだ事件の一部をご紹介致します。


・松川事件
・千葉川鉄あおぞら裁判
・ローソン・フランチャイズ商法事件
・東京電力思想差別撤廃裁判
・東金ビラまき事件
・西船橋教師転落死無罪事件
・鍼灸マッサージ師差別国賠請求訴訟
・布川事件
・原爆症認定訴訟
・船橋信用金庫損害賠償請求事件

 

松川事件

1949年8月17日午前3時9分頃。東北本線金谷川駅と松川駅の間で、青森発上野行列車が脱線転覆し、乗務員3名が死亡するという人為的事故が発生しました。
捜査当局は、犯人検挙と称して、国鉄労組福島支部の幹部らと東芝労組松川支部の幹部らを犯人に仕立て上げ、20名を列車転覆致死罪で起訴しました。
福島地方裁判所は、5名を死刑、5名を無期懲役、10名に対して合計95年6月の懲役刑を言い渡しました。直ちに控訴し、仙台高等裁判所は3名を無罪にしましたが、4名に死刑、2名に無期懲役、11名に対しては合計104年6月という懲役刑を言い渡しました。直ちに上告し、全国的に大衆的裁判闘争が発展する中で、最高裁大法廷は10日間の口頭弁論を開き、1959年8月10日、原判決を破棄し、仙台高等裁判所に審理のやり直しを命じました。その2年後の8月8日、全員無罪の判決が出ました。検事の上告は棄却され、1963年9月12日、全員無罪の判決が確定しました。
その後、権力犯罪を追及する損害賠償請求訴訟を提起し、元被告らが全面勝訴、権力の不正を完膚無きまでに明らかにしました。
当事務所柴田睦夫弁護士は、弁護士登録間もない頃から、この弁護を担当し、無罪を勝ち取ることに大きな役割を果たしました。


〜広辞苑から〜
まつかわ‐じけん【松川事件】
1949年8月17日東北本線松川駅付近で列車が転覆した事件。国鉄および東芝の人員整理に反対する共産党員らの暴力行為として党員・労組員らを逮捕、同党弾圧の口実としたが、広津和郎らの救援活動が世論を喚起。裁判所は第1・2審で有罪と断じ、のち最高裁は原判決を破棄、差し戻した。63年最高裁は全員無罪の判決を下した。
ひろつ‐かずお【広津和郎】
作家。柳浪の次男。東京生れ。評論家として出発、「神経病時代」で作家的地位を確立。のち散文精神論を唱え、小説「風雨強かるべし」「巷の歴史」などを発表。戦後10年余にわたり松川事件の裁判批判を行う。(1891〜1968)

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千葉川鉄あおぞら裁判

川崎製鉄(現JFEスチール)は、1950年に千葉市南部の臨海地区での操業を開始しました。
ところが同社は、製鉄の過程で大量の窒素酸化物・硫黄酸化物・粒子状浮遊物質などを大気中に排出しました。これによって多くの近隣住民が大気汚染に悩まされ、気管支炎や気管支ぜんそく、肺気腫などの公害病に苦しむようになりました。
その結果、周辺住民や県立千葉高校による自主測定運動が広がり、これらのデータに基づいて、1975年、周辺の被害住民多数が原告となり、川崎製鉄を被告として大気汚染物質の排出の差止や損害賠償などを求めて提訴したのが川鉄公害裁判(あおぞら裁判)です。
当事務所に当時所属していたほとんどの弁護士がこの裁判の原告側代理人として活動しました。
裁判は、損害論や因果関係論など、さまざまな川鉄側からの引き延ばしの結果長期化を余儀なくされましたが、千葉地方裁判所は1988年、川崎製鉄の排出する大気汚染と住民・原告患者らの健康被害との法的因果関係を明確に認め、川崎製鉄に損害賠償を命じる原告勝訴の画期的判決を言い渡したのです。川鉄は控訴しましたが、1992年、東京高等裁判所で原告勝利の和解が成立しました。
この裁判で大気汚染と公害患者の病気との法的因果関係が認められたことは、後に続く大阪・西淀川、倉敷など各地の大気汚染公害裁判に大きな影響を与えるものとなりました。

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ローソン・フランチャイズ商法事件

コンビニが町にあふれていますが、コンビニって結構簡単に潰れたり、できたりしてませんか?
実は、フランチャイズ制をとっているこれらのコンビニ。本部だけが確実にもうける仕組みになっていて、加盟した各店の店主は、利益を出すことがきわめて困難です。
利益を出すためには人件費を削るしかなく、そのためには店主が家族ぐるみで労基法を無視した長時間労働をせよと指導しているのです。昼は奥さんが働き、夜中はご主人が働く。休みもなしで働いても、手取りは僅か。現代の奴隷工場といわれるゆえんです。
しかも、やめたいと思っても簡単にはやめることもできません。何千万円などという法外な違約金が課せられるからです。進むも地獄、引くも地獄。こんなことが、華やかなテレビ宣伝の陰で、今も、日本中に広がっています。
ところが、このような仕組みについてはほとんど説明らしい説明もせず、誰でもできますなどとして勧誘しているのがフランチャイズの実態です。
1995年3月、このフランチャイズの中でも特に悪質なローソンを相手に、千葉と東京の3人の店主が詐欺を理由として千葉地方裁判所に損害賠償請求訴訟を提起しました。証言に立った元店主の原告の一人は、あくどいやり方を思い出して思わず涙する場面もありました。
この結果、千葉地方裁判所は2001年7月5日、ローソンに対し、説明義務違反を認め、2300万円の損害賠償を認める判決を言い渡しました。大手コンビニエンスフランチャイズに関する、初めての大勝利判決で、マスコミも大きく取り上げました。
ローソンは、この判決を不服として東京高等裁判所に控訴しましたが、裁判所の和解勧告を受け入れ、2002年3月、ローソンが責任を認める和解で決着しました。
フランチャイズの問題点を浮き彫りにした『コンビニの光と陰』(光伝社。2500円)には、当事務所弁護士らが、千葉のローソン裁判を紹介しています。

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東京電力思想差別撤廃裁判

東京電力は社員の思想調査をし、日本共産党の党員あるいは支持者を見つけると、考え方を変えろと迫りました。これを拒否した社員に対しては、大事な仕事をやらせない、給料を同期生より安くする、役職を与えないといった差別扱いをしてきました。
1976年10月、1都5県の東電社員合計142名が、このような差別の撤廃を求める裁判を、各都県の裁判所に起こしました。当事務所ではほぼ全員の弁護士が原告らの代理人になりました。
裁判では、東電が日本共産党の党員や支持者を差別する労務政策を行ってきたこと、その結果原告らとその家族が全生活にわたってひどい差別を受けてきたこと、原告らが差別されながらも仕事に励み実績を挙げてきたことを豊富な証拠で明らかにしました。
1993年には前橋・甲府の各地裁が、1994年には長野・千葉・横浜の各地裁が、原告らの言い分を認めて東電に損害賠償を命ずる判決を出しました。
東電は控訴しましたが、1995年12月25日1都5県すべての原告について和解が成立しました。和解の内容は
(1)過去の差別について損害賠償をする
(2)現在の差別を是正する
(3)将来差別をしない
というものでした。

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東金ビラまき事件

拝啓東金警察殿。道路でビラを配ると道路交通法違反ですか?
もちろん違反などではないのです。ところが、東金警察の対応はきわめて異常でした。
1987年1月15日、成人式帰りの若者に対して核廃絶や平和を訴えるビラを配っていた民青同盟の青年を、道路交通法違反を口実に逮捕したのです。直ちに駆けつけた石井弁護士や市川弁護士を警察に入れようとせず、翌朝駆けつけた山田弁護士や梶原弁護士に対しても、接見(弁護士面会)を丸一日近くも妨害しました。
表現の自由は、民主主義の根幹に関わる重要な権利であり、憲法にも保障された重要な基本的人権のひとつです。道路交通法違反などを口実にこれを妨害できないことは、すでに東京高裁の判決などでも明らかなところでした。東金警察の対応は、まさに違法・不当な弾圧と呼ぶべきもので、警察による犯罪行為ともいうべきものでした。
さすがに検察庁は、抗議を受けて青年を釈放し、まもなく不起訴処分にしました。しかし、東金警察のこのような違法行為を放置することはできないとして青年は東金警察(千葉県)の違法性を断罪するため、国家賠償請求訴訟を提起しました。これに対して千葉地方裁判所は、1989年1月、青年の主張を全面的に認め、東金警察(千葉県)に慰謝料の支払いを命じる判決を言い渡しました。
この裁判の中で、青年を中心とした支援する会の輪が大きく広がり、市川弁護士作詞作曲にかかる「ぼくらは警察を許さない――東金事件の歌」が作られ、集会などで歌われたりしました。
この事件はマスコミにも大きく取り上げられた他、各種の判例集などに搭載されています。

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西船橋教師転落死無罪事件

1986年1月16日深夜、総武線西船橋駅のホームから泥酔した高校教師が線路上に転落し、電車とホームの間に挟まれて即死しました。警察は、この教師を押して転落させたとして女性を傷害致死容疑で逮捕。これに対し、当事務所河本和子弁護士、市川清文弁護士と、当時、当事務所に在籍していた梶原利之弁護士が弁護を担当し、翌87年9月17日、千葉地方裁判所は、この女性に対し、正当防衛を理由として無罪を言い渡しました。
当時、マスコミは、女性がダンサーであったこと、男性が高校教師であったことなどから派手な報道合戦を繰り広げましたが、次第に、女性に対する男性一般の性的な暴力の問題が浮き彫りとなり、女性達の応援団もできるなど、大きな世論が広がっていきました。
深夜のJRホーム。泥酔した男性が口汚く女性をののしりながら、胸ぐらをつかんだり、こづいたり、果ては回し蹴りの真似をするなど、したい放題の暴行に及んでいました。客は多数いたにもかかわらず、他の男性客らは女性を助けようともしなかったのです。女性は、怖さとうとましさの中で、胸ぐらをつかむ男性を押して放させました。その結果として、男性はホーム下の線路上に転落したのでした。但し、電車はすぐには来ず、泥酔した男性が、無理にホーム上によじ登ろうとして挟まれ死亡したものでした。
千葉地方裁判所は、このような場合、女性が手をどけるために押すことは当然の行為であるとして、純白の無罪判決を書いたのです。そして検察庁は、この判決に対し、控訴を断念し、女性の無罪が確定しました。
この裁判をきっかけとして、女性に対する男性の性的暴力がクローズアップされ、各地で女性が立ち上がりました。
そして89年12月、「セクシャルハラスメント」が自由国民社『現代用語の基礎知識』の新語流行語大賞の金賞に選ばれ、この言葉が世に広まる契機となった裁判の弁護団長として河本和子弁護士に同賞が贈られました。
なお、この判決は、各種の判例集に搭載されております。判例タイムス654号109頁。判例時報1256号3頁。
また、この事件をモデルにしたドラマ、土曜ワイド劇場『事件2』OLが見たホーム転落死の真相!――主演北大路欣也、奈美悦子、伊武雅刀、佐野量子――が、94年6月11日、テレビ朝日系列で放映されました。

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鍼灸マッサージ師差別国賠請求訴訟

私たちが医者にかかる場合、健康保険を使って、自己負担分だけを支払えばよいことになっています。これは原則として保険医療機関を利用する場合のことですが、針灸師マッサージ師や柔道整復師を利用する場合でも、一定の要件があると(必要性についての医師の承認等)、健康保険が適用されます。これを「療養費の支給」と呼びます。
「療養費の支給」は、針灸師マッサージ師にかかる場合も、柔道整復師にかかる場合も、同じ法律の同じ条文が規定されています。
ところが、同じ療養費の支給であるにもかかわらず、厚生省(その後、厚生労働省)は、針灸師マッサージ師にかかった患者さんと柔道整復師にかかった患者さんを差別してきました。
すなわち、柔道整復師にかかった患者さんについては、病院などの場合と同様に自己負担分だけを支払えば良いのに、針灸師マッサージ師にかかった患者さんについては、一旦全額を支払った上で、改めて自分で健康保険への請求をしろというのです。
これでは経済的負担の軽減を目指した健康保険が台無しですし、自分で請求手続をしなければならないとしたら、とても面倒で、おっくうです。
しかも針灸師マッサージ師にかかった患者さんについてだけ、このような負担を強いる理由もありません。
健康保険組合(公務員共済なども)によっては、このような通達に従わない扱い者もありましたが、あくまでも厚生省の通達に厳格に従う健康保険組合等もありました。
このような厚生省の通達による差別行政を改めさせ、誰でもが安心してそれぞれの医療を利用できるようにするために、全国の針灸師マッサージ師らが立ち上がったのがこの裁判です。
裁判は2000年1月提訴。厚生省の指導に従って、差別的な扱いに固執する健康保険組合等がたくさんあった千葉に狙いを定め、千葉地方裁判所に提訴しました。原告126名、被告は国を含め18名。大訴訟団です。
この訴訟が提起されたことで、これまで頑なに差別的な扱いに固執してきた被告健康保険組合等が、次々に、扱いを変更する和解に応じた外、被告とされなかった他県の健康保険組合等も、次々に差別的な扱いを止めるようになり、裁判が終わる頃までには、ほとんど(99%以上)の健康保険組合等で、扱いが改善されました。
訴訟では、形式的な判断で原告の請求が棄却されましたが、千葉地裁、東京高裁と審理が行われる中で、次々に問題点が明らかにされ、鍼灸マッサージ師を利用しやすい制度に、事実上大きく舵を切ったことは、この制度にとって大きな成果でした。

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布川事件

布川事件は、1967年8月下旬,茨城県の利根町布川で起きた強盗殺人事件です。8月30日朝に、一人暮らしの62歳の男性が、自宅で口の中にパンツを押し込まれ、首にもパンツが巻かれた異様な状態で死亡しているのが発見されました。
事件の発生は、8月28日夜と推定され、物色の跡があったことから強盗殺人事件として捜査が始まるものの難航しました。そして、事件発生から40日以上経って櫻井さん、杉山さんが別件でそれぞれ逮捕されました。
逮捕当初、二人は犯行を否認していましたが、警察の自白の強要などにより、それぞれ自白しました。この捜査段階の自白を唯一の直接証拠として一審、二審とも無期懲役の有罪判決が出、最高裁まで争いましたが上告棄却により確定しました(1978年)。
事件で特徴的なことは、犯行と2人を結びつける物証が何一つ存在せず、2人の捜査段階での自白が唯一の直接証拠であったこと、また、数人の目撃証言があるものの、いずれも2人を犯行現場の付近(被害者宅や駅周辺)で見たというものにすぎませんでした。
1983年に獄中から請求した第一次再審請求は棄却され、最高裁まで争いましたが再審はかないませんでした。
1996年に2人は仮出獄をしました。その後、2001年12月に第二次再審を請求し、新たに毛髪鑑定書(現場遺留の毛髪から2人以外の第三者の存在をうかがわせるもの)や死体検案書(自白と殺害態様が異なることをうかがわせるもの)、新たな目撃証人の供述調書(犯行当日に被害者宅前にいた人物は杉山さんではないとするもの)などが開示されました。もともとの確定有罪判決の根拠がとても弱いことに加えて、2人が無実であることを示す重要な証拠が開示されたことが相まって、2005年9月21日、水戸地裁土浦支部は再審開始決定を出しました。決定では、2人の自白についても、変遷が多岐にわたり不自然な点が多く、また客観的事実とも矛盾するとしてその信用性を認めませんでした。
その後、2008年7月14日に東京高裁は検察官の即時抗告を棄却、さらに、2009年12月に最高裁は検察官の特別抗告を棄却、再審開始決定が確定しました。
そして、2010年7月から水戸地裁土浦支部で始まった再審公判は、検察官の不当な抵抗(再審公判にいたってからのDNA型鑑定請求、40年以上前の目撃者の供述調書の不同意,論告での無期懲役求刑など)にあいながらも、これを乗り切り、2011年5月24日に再審無罪の判決が出され、その後検察官が控訴を断念、44年ぶりに2人の無実が司法の場で確定しました。
現在、2人は、えん罪に苦しむ人たちを支援し、えん罪をなくすため、全国を行脚しています。

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千葉原爆症認定訴訟

1945年8月6日に広島に、8月9日に長崎に、それぞれ落とされた原子爆弾は、人と財産と町を一瞬にして消滅させ、その年だけで広島では約14万人、長崎では約7万人が亡くなったといわれています。被爆者は、差別や偏見に苦しみながら戦後を生き抜いてきました。
被爆者は、被爆後60年以上経っても、がん、白内障などの健康被害に苦しんでいます。そのような健康被害が、被爆者援護法に基づく原爆症と認定されているのは、1980年代後半から毎年約2000人にとどまっていました(2003年時点で被爆者健康手帳をもつ約28万人のうち原爆症認定者はわずか0.8%にもなりません)。
1987年に広島で被爆した小西建男さんが京都地裁に、1988年に長崎の被爆者松谷英子さんが長崎地裁に、それぞれ原爆症認定を求めて提訴し、いずれも2000年に勝訴判決が確定しました(大阪高裁・最高裁)。ところが、厚生労働省は、2001年に一層厳しい「原爆症認定に関する審査の方針」を策定し、却下を続けてきました。
近距離被爆した被爆者しか原爆症とは認めず、内部被曝や残留放射線を軽視したものでした。
これに対し、全国の被爆者が怒り、2003年4月から起こした裁判が原爆症認定集団訴訟です。千葉地裁でも2003年5月から提訴を始めました。

2006年から大阪・広島・名古屋・仙台・東京・熊本各地裁で次々と勝訴判決が出たを受け、2008年4月から「新しい審査の方針」での運用が始まりました。それでも、救済範囲が限定的であったため、訴訟が続きました。その後も仙台高裁・大阪高裁、長崎・大阪・札幌各地裁での勝訴判決の後、10月14日には千葉地裁でも全員勝訴しました。2009年には鹿児島地裁で勝訴した後、3月には千葉地裁の控訴審も勝訴しました。広島高裁では国家賠償請求まで認めています。さらに5月に大阪・東京両高裁でも原告が勝訴しました。そこで、6月には「新しい審査の方針」が再改訂されました。8月には、日本原水爆被害者団体協議会と麻生太郎内閣総理大臣、舛添要一厚生労働大臣(いずれも当時)との間で解決に向けた協定書が締結され、集団訴訟は解決の枠組みを得ました。
しかし、現在、厚生労働省は原爆症認定申請を大量に却下しており,被曝の影響を過小評価しない新たな闘いがもとめられています。

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船橋信用金庫損害賠償請求事件

船橋信用金庫(以下ふなしんという。)は、船橋市を中心とする千葉県北西部の地域の中小企業に融資をするなどしてきた信用金庫です。ふなしんは、2000年1月25日に経営破綻しました。本件は、被告ふなしんの職員の勧誘に応じて同被告に出資した原告ら66名が、2004年5月、被告ふなしん、被告元理事4名、被告国に対して、出資金相当額の損害金及び弁護士費用の賠償を求めたものです。
事件の背景には、被告国が1996年に金融システム改革の推進構想を打ち出し(日本版ビッグバン)、1998年6月にはその集大成ともいうべきいわゆる「金融システム改革法」を制定し、一部を除いて同年12月1日に施行しました。
このような経済状況に加え、1998年10月にはいわゆるペイオフ解禁を行い、更に、信用金庫相互援助資金制度の改正により、2001年4月1日からは1万円を超えては出資金を保護しないこと、2002年4月1日からは一切出資金を保護しないこととしました。加えて、金融検査マニュアルが1999年7月に公表され、各金融機関は、この金融検査マニュアルに基づき、自己責任の原則に則って自己査定を行い、自らリスク管理体制を強化することが求められました。
以上の被告国の金融行政により、当時、多くの信用金庫が倒産しました。
被告ふなしんは、前記の厳しい金融情勢の中で、貸倒金の償却・引当の負担が自己資本をますます減少させ、その自己資本比率は極めて低下していました。
被告ふなしんは、自己資本比率の増加のために、第1次出資金増強運動を1999年10月から同年度末の2000年3月まで、第2次出資金増強運動を2000年12月から同年年度末の2001年3月まで実施しました。原告らは、このときの出資者です。
2009年6月26日千葉地裁で判決が言い渡され、約7割の原告が勝訴しました(認容した損害賠償額約7200万円)が被告国には、全部敗訴でした。
千葉地裁の判決は、被告ふなしん及び被告理事に対する経営状況に関する説明義務違反並びに指導監督義務違反について、2000年12月21日の理事会では、近い将来債務超過に陥り、経営破綻する具体的、現実的危険性があり、これらを元理事は認識していたとして、2000年12月21日以降の出資者である原告が勝訴し、それ以前の出資者である原告が敗訴しました。
双方控訴(ただし、原告は国に対する控訴を断念)しましたが、2011年7月7日東京高等裁判所は、双方の控訴を棄却して、一審判決をそのまま維持しました。第一審被告らは、上告及び上告受理申立をせず、第一審原告の勝訴は確定しました。
そして、第一審原告らは、2011年7月最高裁判所に上告及び上告受理申立を行い、現在に到っています。

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